【記者魂22】いじめ問題で考えたこと

いじめの問題がクローズアップされると、自分の小学校、中学校と子どもの時はどうだったか──と、そのたびに振り返る。“仲間はずれ”にされる・・・といった、いじめにあったこともあるが、真実を言えば、反対にいじめる側にもいたこともあった。

昨年9月の代表質問で「いじめ問題」を取り上げるなど、県議団全員でこの問題に取り組んでいるものの、「いじめっ子」の立場から、反省を込め、懺悔しつつ質問したというのが正直なところ。あくまでも想像だが、古典的ないじめである“仲間はずれ”などは、数で言えばいじめる側の方が多いことなどからして、私と同じような気持ちで取り組んでいる政治家は少なくないのではないか。

いじめた側にいたこともある・・・そう告白しても、正直に話せば、どういじめたのか覚えていない。“仲間はずれ”にされた・・・という、自分が痛みを感じたことは、はっきり覚えているのに、同じ小学校時代のことにも関わらず、自分がどういじめかについては、まったく覚えていないのだ。小中時代のいじめというのは、幼さも手伝って、相手の痛みがわかっていないのだろう。与えた方は痛みがわからない・・・だから、忘れてしまうし、その時点で始末が悪くなる。

では、覚えていないのに、なぜ、いじめた側にいたと言えるのか・・・それは、当時の担任の先生に、同じくいじめた側の級友達と雁首そろえて、こっぴどく叱られたことを今もって、記憶しているからだ。

覚えているのは、先生が加担した男子十数名を学級会の時間に全員前に呼び出し、厳しく糾弾するとともに、いじめた女の子に謝罪させ、その後、何時間も全員を廊下に立たせたこと。鉄拳制裁もあり、泣き出した輩もいた。男子は1クラスに22名いたので、実に3分の2の男子が加担していたことになる。休み時間など、まさにさらし者・・・他のクラスの生徒からからかわれ、それが夕方の下校時刻まで続き、懲りた私も含めた面々は、その後はいじめるのを止めたのだった。

今時、鉄拳制裁など許されないのだろうが、振り返ってみると、そこには“教育”があったと思う。大津の一件では、担任の教師が“事なかれ”的な対応を取ったとのことだが、それは最悪・・・「いじめっ子」には、体当たり的な指導をすべきなのだ。制止をする、相手に痛みがあることを教える・・・何でもいい、いけないことと悟らせなければならない・・・自らの経験からそう思っている。

もちろん、指導しても、いじめを止めないワルもいるだろう。それでも、何もしないよりも、その後に良い方向に変化が訪れるかもしれない。大津の件では、いじめた生徒の親がPTA会長で、それゆえに“事なかれ”になったとの見方もあるようだが、現場がかように腐った、指導を躊躇させる状態にあるのなら、まずは、そこを正さなければならないと思う。

もう1つ、中学時代、気に入らない女子が学級委員の選挙に立候補した際、仲間何人かで共謀し、その子が落選するように仕向けたことがあった。これは、私も含めて当時の仲間は「いじめ」ではなく「いじわる」と認識していたと思うが、今は確かめようがないながら、立候補した女子にしてみれば「いじめられた」と思っていたかもしれない。

大津の件では裁判で、被告側の生徒が「いじめではない」と強調しているが、「いじめ」の中には、いじめた側といじめられた側の意識が大きく違うケースもあるのではないか。これも、適切に判断し、指導するという点で、教師の役割は大きいし、重いと思う。先生の在り方、指導力・・・いじめ問題で改めて問うことが必要と言えそうだ。

むろん、刑事告発という事態になったことからも、アンケート結果がすべて正しいとの前提で、大津の件の被告側生徒の行為は「いじめ」を通り越して「犯罪」と言わざるを得ない。「犯罪」を抑止できなかった担任教師・・・今回のケースは、指導力について例外中の例外とみたいが、先述したように、指導に躊躇するような腐った土壌である教育現場が他にもあるとすれば、さらに不幸が起きることを危惧するものである。「いじめ」の問題について、こうした視点から今後も取り組む考えだ。

さて、この拙文を記している際、大津ではなく、三重県の津で、いじめ対応の校長先生が自殺した・・・というニュースが目に入った。こう書くのも何だが、真摯に取り組んでいる先生もいると思うとともに、大津の校長とはあまりにも姿勢に落差の大きさが感じられ、言葉にならない。亡くなった校長先生のご冥福を祈りたい。