【記者魂44】ねじれ解消は本当に良いことなのか?

参議院選挙の選挙期間も半分が経過し、この3連休から後半戦となる。おそらく連休明けには、報道機関の情勢分析が明らかになるが、序盤の情勢は自公優勢、過半数を確保し衆参のねじれが解消する見込みだという。

ねじれ解消によって「決められない政治」から決別、政府の意思決定がスムーズになるため歓迎・・・といったマスコミの論調が目立つ。果たして、ねじれの解消は本当に良いことなのだろうか。

ここで参議院についておさらいをすると、社会科の教科書に「良識の府」と書いてあるように、解散があることで、より民意が反映されやすい衆議院が”行き過ぎ”た場合、それをチェックする役目を担っている。今の状況に照らすと、衆議院で圧倒的な勢力を誇る自公政権による横暴をストップさせるのが、ねじれと言えなくもない。

かつて、55年体制で自民党が隆盛を極めていた際には、参議院が衆議院化していた。両院ともに自民党が多数派であるため当然と言えば当然のことながら、参議院の良識の府としての機能が果たされなくなり、参議院は「衆議院のカーボンコピー」と当時のマスコミは批判していたのである。

カーボンコピーの状態が解消した、チェック機能が働くようになったのにも関わらず、今度は「衆参ねじれ」を批判・・・いったい、カーボンコピーとねじれは、どちらが良いのだろうか。

もちろん、自公、民主と、その時々の参議院で多数派を形成する”野党”が、参議院を政争の道具にしてきた点を考慮しなければならないが、本当に国民のために急ぐべき事項は、ねじれていても、刷り合わせて決まっていた。国民の意見が二分されているような事項に関しては、すんなり決まる方がおかしいのである。

ねじれを継続するのも、解消するのも、決めるのは国民。私見では、私が携わる地方政治において、知事はじめ県の執行部の“行き過ぎ”をチェックするのが県議会であるように、衆議院をチェックするのが参議院なのではないか。参議院をカーボンコピーに戻してはいけないと考えている。