【記者魂131】敗戦記(3)・・まさかの”30分の1”に激減!

2019年5月7日

 3回の選挙戦において、私に投じて頂いた有権者の皆様には心より感謝している。1度は当選させて頂いて、思い切り仕事をすることができた。もちろん、期待に添えない部分もあったと思うが、制度を変え、状況を改善させ、感謝されたことも少なくない。政治家として一番嬉しいのは、自分が良くしたことで喜ぶ顔を見ることである。

 さて、ここで、自分が戦った選挙の足跡を振り返ってみよう。これまでの得票数を以下にまとめてみた。

2011年4月 千葉県議会議員選挙 14461票(当選)
2015年4月 千葉県議会議員選挙  7701票(落選)
2019年4月 市川市議会議員選挙  484票(落選)

 県議選、市議選と選挙の種類、相手関係は異なり単純な比較はできないが、エリアは同一であるのにも関らず、有権者の移動はありながらも、最初の選挙から8年間で私の得票数は約30分の1まで激減した。

 2回目の県議選でも約45%票を減らし、どうしてここまで──と思ったものの、当時は旧みんなの党の議員に対する批判が強く、かつ、所属していた維新の党も、ある女性国会議員の問題もあり、逆風の選挙だった。ただ、全国的に昔の仲間の苦戦をみると、活動を一生懸命やっていた議員は40~50%減、活動が不足しているとみられる議員は5分の1まで得票を減らしており、後で「むしろ、活動をしていたから、半減程度で済んだ」と考えを改めたのを思い出す。

 そして今回は過去2回の選挙に比べ、明らかに活動不足だった。しかし、かつての票が30分の1になってしまうものだろうか。もちろん、私は不祥事を起こしたことはない。政策に関しては、県議時代に数多くの実績を残してきた自負もある。ところが、それらはまったく関係ない──と思えるような、目に見えない力が働いているとしか思わざるを得なかった。

 不祥事と言えば、事件を起こして辞任した市議が私の秘書を務めていたことが、影響したのかもしれない。元秘書が市議選に立候補した際には、早い段階から私の紹介で市民活動に参加させたり、いわゆる引き回しをしたり、さらに、一緒に街頭演説を何度も行った。事件直後は支援者を中心に「お前の秘書だったあれか?」と連絡が殺到しただけではなく、今でも思い出したように言われることもある。事件の行為は、私の下を離れた後とは言え、道義的な責任を取れと言われれば返す言葉もない。彼の不祥事を私が代わりに背負っての立候補とみれば、泡沫の票数も納得がいく。

 一方、解党したみんなの党への批判については、4年前に苦杯を舐めた仲間が次々と返り咲きを果たしている点からすると、今回は解消したと見ることができる。しかし、私の地元の市川は、千葉県内でもみんなの党の支持率が高い地域だった上、県議時代「みんなのみずの」というキャッチフレーズで浸透させたことから、私については、そうした悪いイメージがまだ残っているのかもしれない。

 ここまで票を減らすと、政治家としては致命的。引退する、というより、引退せざるを得ない──という状況だ。浮動票がゼロに近く、知り合いの票だけで選挙は勝てるものではない。政治の師匠の1人から「この世界、一度でも泡沫になったら終わりだから、無理な立候補だけはするなよ」と教えを受けたことがあったが、その通りになってしまった。染み付いた悪いイメージは簡単に拭うことはできないだろう。

 同一のエリアで、得票数が30分の1に減ったというのは、日本でワースト、或いはワーストに近いケースかもしれない。活動不足を理由とした結果は、次に繋げることもできるが、それに悪いイメージが加わるとなると、もう市川では、政治的な発言をしても誰も聞いてくれない──そう思わざるを得ないのである。

 今回の選挙結果は、はっきり、私の準備不足、活動不足に起因する。それだけなら、再起云々とアピールするが、そうできないほどの悪いイメージがついていると感じた。そう、そのイメージを払うには、通常の当選するに必要な活動の何倍かの活動をするか、当選できそうな政党入りをするなどロンダリングするしか道はなかったのだ。イメージをチェンジするどころか、さらにイメージを悪化させた今、次を考えることはしようと思ってもできない。

さて、ロンダリングと書いたが、もう一つ、票の出方に大きな影響を与えたと思われるのは、政党の公認ではなく、無所属で出馬した点だろう。これは、前述したように、後々のイメージにも関わってくるのだが、項を改めて記すことにする。

(続く)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)