【記者魂26】甘いウラ取りの多さを憂う

ウラを取るのは記事を書く上での基本中の基本だ。事実を報道する際、ウラが取れなければ記事にしないのが鉄則だが、最近のマスコミをみると、ウラを取ってないとは言わないまでも、甘い例が多いと感じる。マスコミOBとしてこの事態、憂うとともに、日本の報道は大丈夫なのか・・・と心配してしまう。

当事者から事実を聞くことができれば、それが一番・・・聞けない場合は周辺取材を重ねて事実を掘り起こしていくが、それは慎重に行わなければならない。私が属したロイターでは、あらゆる事象に関して、コメントは複数のニュースソースから取るルールが徹底され、少しでも類推となる余地がある時は記事にしなかった。そのため、ほぼ間違いない…と思っても、慎重に対処するがために、他社に抜かれることが少なくない。私だけではなく、ほとんどの同僚記者が厳格なルールを守るがゆえに、悔しい思いをしたことが何度もある。

もっとも、功名心にはやるあまり、事実に反することを報じるよりは、悔しい思いをする方がいい・・・それが“記者の良心”ではないか。読者、或いは視聴者は、ニュースに接する際は、事実、真実を知りたいのである。そうしたニーズに対して、責任を持って応えるためには、慎重の上にも慎重を重ねるべき。不良品を販売したメーカーが社運を傾かせる例が少なくないが、ジャーナリズムの場合も、ねつ造は論外として、誤報のオンパレードではやがて信用をなくし、存在を否定されることであろう。

なぜこんなことを改めて記したのか・・・読売新聞が昨日の朝刊に掲載した「iPS心筋移植」がきっかけである。同紙によれば、移植をしたとされる森口氏の成果に疑義が浮上したという。これが事実であれば、大スクープであるのは間違いないものの、実はインチキの可能性が高いというのだ。

読売新聞は今日の夕刊に、「『iPS心筋移植』報道、事実関係を調査します」とする記事を掲載し、その中で「本紙記者は、事前に森口氏から論文草稿や細胞移植手術の動画とされる資料などの提供を受け、数時間に及ぶ直接取材を行った上で記事にしました」と事実関係を明らかにした。

現時点では、インチキとは断定できないながら、取材した記者は、森口氏の言い分を、言葉は悪いが“鵜呑み”にしたとみることができる。これが事実だとしても、周辺取材を怠った点は、ジャーナリストとして芳しいとは言えない。結論づけるのは、読売新聞の調査を待ちたい(たとえば、山中教授のノーベル賞受賞後に森口氏からアプローチがあったのか?森口氏の売名行為だったのか?等々)が、いずれにしても、記者が森口氏に利用されたということが容易に想像がつく。

当事者から事実を聞けば、それが一番・・・先にそう記した。しかし、該当する事象が、事実、真実である場合に限る。事象がインチキであるのなら、それをしっかりと見極め、記事にしないことも記者の力量であるのは論を待たない。今回の件がインチキであるとの前提で記せば、話が持ち込まれた際(ニュースの売り込みなどよくあること)に、その周辺取材も並行して行い、事実としての裏付け、つまり、ウラを取るべきなのだ。

たとえば、今回の場合、6人治療したというのであるので、少なくともそのうち複数の患者に取材を試みる、森口氏が所属するとされるハーバード大学にヒアリングする・・・そして、何よりも先端医療の場合、必ず規制当局が絡んでいるはずなので(米国ではFDAが該当)、そこを洗う・・・などがそれにあたるだろう。現時点で、報じる過程でそうした作業の積み上げがあったとは感じられず、森口氏の話のみで記事が作成されたように思えてならない。

政治や経済関係のニュースによくあるが、“タメにする”という行為がある。自分の思う方向にコトが運ぶようにするため、事実やねつ造に関わらず都合の自己に都合の良い話を記者に持ち込み、メディアを利用するのだ。今は風説の流布など処罰の対象となるため、減ったと思われるものの、株式市場などでは株価を操作するために、吹き込もうとする輩が後を絶たない。何の意図があるのか定かではないながら、今回の報道はこれに近いものと考えらよう。

自分の経験で言えば、アンカーとなって記事を書く際、部下が取ってくるコメント、ネタに対して細心の注意を払う。コメントが100%事実に基づくものであっても、報じる際、微妙にニュアンスが異なるだけで、とんでもないミスリードとなってしまうこともありうる。話した人の「助詞」の1つも注意する・・・本来、報道というのはこれくらいナーバスな仕事であるはずなのだ。ましてや、ウラを取り切れない・・・取っても甘い・・・など許される行為ではない。

たまたま、今回は読売新聞の記事を例に取り上げたが、決して同紙を攻撃するつもりはなく、以前に比べると、ウラ取りが甘い報道が多いのでは・・・そう感じている。自分が所属するみんなの党に関する記事にしても、維新の会との関係などはその筆頭だ。どういったニュースソースを利用しているのかわからないが、江田幹事長や先方の橋下市長に事の真相をぶつけることなく(お二方とも、ツイッター、facebookでこの件に関して自分は取材されていないと発信している)、どうして“破談”やら何やら断定的に書けるのか。

私自身も、少し前に各報道機関から集中的に取材を受けたが、某紙(名誉のために読売新聞ではないと敢えて記しておく)などは、都合の良いワンフレーズのみを記事に掲載、インタビューの時間のほとんどを割いた私の主張が完全に無視され、自ら描いた記事の“シナリオ”に沿った材料として使われてしまった。

ワンフレーズを述べたのも事実であうる上、私も自らの記者経験から「言ったらしまい」と肝に銘じているため、そのフレーズは書かれても構わない。しかし、私の主張とは正反対のことであるのは、インタビューを通じて明らかであるのは当人はわかっていて、確信犯で載せたはず・・・もう一度書くが、私が言ったことを書くのは自由。が、せめて、私の主張を織り交ぜた上で書くのが礼儀ではないか。これは蛇足ながら、私は自分がマスコミ出身者であるので好意的に取材に応じてきたものの、信頼関係が崩れた以上、今後、某紙の取材には応じないつもりでいる。

話を戻せば、ウラ取りが甘くなるのは、記者が功名心に走ることも理由の1つであるのではないか。私の質問を邪魔した議員、かつて偽メール事件を起こした議員・・・政治の世界にも似たような話は事欠かない。報道、政治、私は社会人になってから、この2つの世界しか経験はないが、いずれも事の本質(読者、有権者のニーズ)を忘れ、自らの欲を満たすことを第一に考える・・・いずれの世界にも、そうした輩が多いような気がしてならない。

現役の記者だった時、これはプロ意識があるか否かの問題と思っていたのであるが、職業倫理が欠如するなど、もっと深刻な問題なのではないのか・・・そのように憂う。それも、マスコミだけではなく、あらゆる分野で、同じことが起きているような気がしてならないのである。